原子力発電所がある海
視界に広がる海。水平線は大空と大海を分かち、明確な意思で引かれたように伸びている。それでいて海に空が映り、空に海が映るかのように溶けてもいる。
水平線をキーワードにパノラマカメラで世界各地の風景を撮影したシリーズ《PEACE LAND》をはじめ、「自然の摂理」をテーマに蓮井幹生が30年以上取り組んできたアートワーク。今回選んだのは、日本国内にある17の原子力発電所が立地する海の景色です。2023年末から25年の約一年半、建設中の青森県大間原発を除く日本国内の原発をすべて訪れ撮影した作品17点を本邦初公開します。
“見えない”写真。無限の“見えなさ”
海に臨む原発は画面外に置かれ、写真には映りません。説明がなければどこの海かもわからない。作品はフィルムで撮影したものをスキャンし、海を航行する船舶やテトラポット、サーファーといった人間の気配全てを画像処理によって消失。こうした作為性に「果たして写真といえるのか」と葛藤はあったというものの、ストレート・フォトグラフィを標榜する蓮井にとって“見えない”写真は画期といえる作品となり、注目です。
「どんなに時代が進んでも、いつだって海は美しい。水平線は地球本来の姿だという考えもあるけれど、海はすでに目に見えないリスクをはらみ、一線を越えてしまったと感じる。(リスクを)生み出しているのは人間であり、それに苦しめられるのも人間。だから、写真としてのあるべき姿を壊してでも、実際そこにはない架空の海を表現してみたいと思った」
福島第一原子力発電所からの処理水の放出作業は今後30年ほど続き、核廃棄という途方もない課題が人類に突きつけられています。一方、蓮井は撮影をする中で原発が地元の生活に根差していることも知ります。ひと筋縄ではいかない世界の“見えなさ”が“見えない”写真に映る。海のように無限に。
人は生きることを終えるのか
「大地は水のうえに横たわっている」とは哲学の祖、タレス。古代ギリシアの詩人、ホメロスはオケアノス(海)はすべての水のみなもとであり、大海は神々のふるさとであると残しています。世界は海の上にある。
水平線を境界と捉え、国家、人種といったあり方について投げかけてきた蓮井。どこかにあると思われる境界は、果てまで追いかけても辿り着くことはない。境界とは人間が観念で作り上げたものであり、どこにも存在しない。私たちの生きる世界はどこまで行っても始まりも終わりもなく、果てがない。あるとするならば、自らが立つその場所だけが境界である。蓮井は、そこから無限に広がる世界を海のイメージに重ねてきたのでした。
そして、文明が消え去った人間不在の海には、自然との調和を支える底が抜けてしまったかの静けさが無限に広がっています。
水を巡るイメージを俳句の五・七・五の十七音に見立て、17点で構成した作品《詠む写真・第一作》、そして、今作《十七の海の肖像》。海、水、そして17という数字が蓮井幹生と作品を分かちがたく結びつけています。
17はラテン語で「私は生きることを終えた」との意味。海洋汚染、海洋資源の枯渇、領有権問題は紛れもなく人間によって引き起こされています。経済、軍事による報復は止まらず、世界を支えていた理念の底がふっと抜けてしまったような現代。長らく大切にしていたものを手放し、私たちは生きることを終えようとしているのか。十七の海の肖像は問いかけます。