今日、ビデオゲームと呼ばれる芸術形式はますます現代アートの世界で注目を集めています。NTT東日本が運営するメディアアート専門の文化施設ICCは、2018年12月から2019年の3月にかけて、「イン・ア・ゲームスケープ:ヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我」展を開催しました。これは批評的な表現を持つビデオゲームと、ビデオゲームの「中」でアーティストによって行われるアート作品が提示される展示でした。また、ソウルの国立現代美術館(MMCA)は2023年にビデオゲームの歴史とその様式を用いた現代アート作品を織り交ぜた「Game Society」展を、森美術館は2025年にゲームエンジンを用いた作品を含む「マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート」展を開催するなど、その切り口は年々多様となっています。
本展「Literature in Dots(ドットの中の文学)」では、ビデオゲームの持つ「文学性」ともいうべき面に着目します。近年、ビデオゲームのオンライン化が進む中、ビデオゲームを通じたコミュニケーションとして想像されるものは、ゲーム内のチャットや音声通話を通じたゲーム上の戦術的会話となりつつあります。しかし、かつて子供の頃にゲームボーイやDSを通じて交わした会話はゲームの内側の世界のためのものではなく、ゲームを接点としたゲームの外の世界でのコミュニケーションでもあったのではないでしょうか。すなわち、小説を読み終えた後や映画を見たのちにその感想を語り合うように、ゲームもまた語り合いたくなる文学性を持っています。そうしたゲームの文学性というコンセプトを軸に、本展では4人のアーティストの作品を提示します。
版画を主なメディアとして扱う植田爽介は、地図と電子基板のモチーフを扱ってきた自身の文脈にゲーム文化を接続します。自身の親しんできたゲームで見られるドット状の地図表現と、洛中洛外図屏風のような日本美術の間に見出されたパース表現と省略表現の共通性を出発点に、植田自身によってゲーム世界と現実世界を繋げていきます。本展のメインビジュアルで植田がイメージを引用する《Tennis for Two》は、世界で最初のエンターテインメント目的のビデオゲームであるとされ、アメリカの原爆開発の拠点であるロス・アラモス研究所にかつて勤めていたウィリアム・ヒギンボーサムによって制作されました。自身のリサーチのためにロス・アラモスに実際に訪れていた植田の身体によって、大量破壊兵器の開発とエンターテイメントという、科学技術の持つ正と負の両側面が接続されます。
コミカルなコラージュによってイメージの持つ政治性を明らかにしていく海沼ちあきは、ゲーム上のテキスト表現に着目し現実世界への応答を描きます。海沼は地図が赤と青に色分けされるアメリカ大統領選挙の結果図を陣取りゲームに、株価の動きをダンスゲームに見立て、「Game Over」の文字を重ねることでまるでゲームであるかのように動き混迷を続ける現実世界を写し出します。また、ゲーム内の吹き出しをサンプリングし、プレーヤーに選択が委ねられているようでその実、ゴールに向かうよう価値観の誘導と条件付けがなされているというゲームメディアの前提的特性にアプローチします。
ニューヨークを拠点とするアーティスト、アダム・マーティンはビジュアルノベルの形式を取って、自身が実際に体験したこととフィクションを織り交ぜながら、アートワールドのリアルを描き出しています。プレイヤーは文字送りを進めるごとにホラーゲームのようなヒリヒリとした緊張感を味わいながら、性的搾取をはじめとする様々な「現実」に直面します。背景に用いられている画像処理によって全体的にぼやけた写真や、手前にテキストが重なるキャラクターの立ち絵は、1990年代から2000年代にかけてのノベルゲーム文化を彷彿とさせるものとなっており、そうしたゲームに没入してきたアーティストの手によって、アートとしてのゲームであり、ゲームとしてのアートでもある作品が成立しています。
技術の発展とそれを受容する社会の間に生じる摩擦に焦点を当てる半田颯哉は、ビデオゲームのプレー環境を支えるハードウェアとテクノロジーに目を向けます。特にこの数年間、半田が興味を向けているのは画像処理に特化したコンピューターパーツであるGPU(Graphics Processing Unit)です。画像処理を高速に行うためにもともと並列処理を得意としていたGPUは、その特性によってAIの学習や仮想通貨の採掘にも活用されており、その結果、価格の高騰が起こっています。半田はこうしたハードウェアを巡る環境に視点を向けることで、ビデオゲームが仮想空間のみで成立しているわけではないことを改めて思い起こさせます。
ビデオゲームという表現は、我々を仮想の世界に没頭させ、新たな視覚的刺激をもたらし、そしてときに現実社会を照射した批評となります。本展でアーティストたちは、そうしたゲームの中から見出だした「文学性」を借り受け、その表現によって新たに作品を生み出していっています。それはすなわち、ビデオゲームという表現媒体に対する応答であり、ビデオゲームをより深く咀嚼しようとする親愛の念なのではないでしょうか。