アリスはどこでもない“ここ”にいる
グラフィックアーティスト牧かほり。自身初となるオールドローイングによる展覧会「Where is Alice?ーアリスはどこに?ー」。
“一枚の絵から立ち上がるプロダクト、スペース、&ワーズ”を制作の核として活動する 牧かほりは日本大学芸術学部卒業後にアメリカに渡り、ニューヨークでファインアートを学びました。帰国後イラストレーターとして活動を開始し、これまでに広告はじめファッション、スポーツブランドのテキスタイル、企業やホテルなどの空間デザインまでを手がけています。画家の父を持ち、幼少の頃には絵で生きていくことを決意。生花の先生である母の影響から現在の作品に通じる花や植物など「華やかでエネルギッシュなものを描くことが多かった」と話します。
不安な日々、描き続けたドローイング
根本では墨の濃淡などモノクロームの世界に惹かれると話す牧。今、国内外で知られる観る者の細胞を活性化させるようなビビッドな牧の世界観は、東日本大震災がきっかけで生まれました。「多くの人が優しいものや華やかなものを求めていて、明るい世界を描きたい」と思い、南国に咲く大きなシェイプの花を思わせる作品を描くようになります。作品を特徴づける曲線は花や植物のそれに惹かれ、表しているとも話します。
そんな彼女が今回発表するのはドローイング。「2年前の緊急事態宣言で画材屋も印刷屋も閉まるなか、アトリエにあるものだけで制作をしなければならず手元に大量のクラフト紙だけが大量にあった。本来は作品保護の為に使う薄紙に鉛筆でドローイングをもくもくと続けてきた」ことが本展につながります。
また大判サイズの作品をプリントすることが叶わず、アトリエのプリンターでA3サイズに絵を分割して出力し、それらのパーツをランダムに繋ぎ合わせていると思いもよらなかった一枚絵が浮かび上がることに気づきます。明確なイメージに向かって描くのではなく、カラダを動かして出てきたものをつなぐ、手を動かすなかで現れる世界に反応するように描く牧の制作スタイルは、壁面コラージュという新たな手法に至ります。
「風景を愛でつつ、塗りつつ、離れてみては謎を解きつつの日々」に誰もが感じてきた不安を抱きながら、ただただ手を動かす中で生まれてくる曲線の重なり。その重なりが見せるシェイプは牧に新たなモチーフとして浮かび上がってきました。
現実を見る目と内面を見る目
「世界的な感染症蔓延を目の前に、私たちはどこに向かうのだろうという不安と模索の中で、今まで描いてこなかった目や瞳を意識するようになり、自然と生きものや、生きものらしきものを多く描くようになりました」
これまで明確に意思表示することは苦手で、目を描くのも好きでなかったという牧。緊急事態の期間、これまで描いてこなかった人の顔や目が強烈に浮かんでくるようになったと話します。その左右の目はどれもアンバランスに描かれ、牧はそれを“現実を見る目”と、“自らの内面を見る目”とします。
また線の重なりが見せる時空間に牧自身が没入するうちに現れた生き物を象徴するのが、うさぎでした。それに誘われるように制作が進み、以前にもテーマとして取り組んだことはあったものの未完に終わった不思議の国アリスの世界観にたどり着きます。牧にとってドローイングは、アリスを探す日々となったのです。
今回、この2年間描き溜めたものと本展のために描き下ろした作品に加え、会場設営の際にギャラリーの壁に直接ドローイングをする壁画作品が登場。これら約30点の作品では曲線から抜け出すように現れた鳥やうさぎ、そして誰も知らない、でもどこかには存在するらしきものが描かれています。
描かれた曲線の連なりはアリスらが円になって回るレース“コーカス・レース”に重なり、会場ではアリスの世界へ滑り落ちるかの没入感が得られることでしょう。これは、空間デザインを多く手がけ、「空間から絵を発想する」インスタレーションも得意とする牧ならではの世界観といえます。
どこにもない、新しい世界を探しに
不条理な世界に思いがけず滑り落ちてしまうことを、今私たちは至近に感じています。行く先々が変な場所で、出会う誰もが理解しがたい言動をとる動物ばかりのアリスの世界は仮想の世界なのか?
「創作には無限の可能性があり、人はこんなにも世界を新しく作ることが出来る」。それを示すことがアーティストの使命だと牧は話します。当たり前だと思っていた生活がひっくり返る中でも手持ちのもので模索し、それでも「大量に作品が出来た」という牧。その姿はシャレにならないことばかり起き、人生がふつうのやり方で続いていくと思うのがいかにナンセンスなことかと思い至ったアリスと重なります。そして、アリスとは私たち自身であることに気づかされるのです。
新しい生活様式や価値観を探る今、現実世界とは区別されたパラレルワールドとしてのメタバースが盛んに言われています。現実のあらゆる制限を乗り越えられるかの仮想世界からすれば、現実世界はなんと効率が悪く、進みが遅く、曖昧なことか。現実と仮想の世界を覗く私たちアリスはどこにいて、どこに向かうのか。
「今もって混沌の世界の中にいる私たち。重なり続ける線の中に意志を持つこと、委ねること、そして面白みや豊かさや可能性を見つけてもらいたい」
アップルやAdobe Systems inc.とのコラボレーションも手がけ、これまで全ての作品をデジタルフィニッシュしてきた牧が、解像度が低い鉛筆のドローイングで新しい世界を見つけ出したことは示唆は富みます。
現実に目配せをしながら、自身の内面をよくよく覗けばnowhere(どこでもない)の世界が現れる。牧かほりがアトリエで紙と鉛筆だけで探し当てたその新しい世界とは、now here(今いる、ここ)であることを語りかけてくるのです。