姿や行方をくらますキャラクター
歪んだフォルム、全身を覆い隠した“名もないキャラクター”たちをアクリル絵具によるペインティングはじめ立体造形、ビデオなどさまざまな手法で表現するwimp(ウィンプ)。
輪郭が曖昧になり、実体がブレていくなかで事象の本質が浮かび上がるコンセプト。例えばブルーシートで巻かれた公園の遊具から着想した作品「PACKING SERIES」ではブルーシートで包んだフィギュアを3Dスキャンし、CGデータ化。情報が覆い隠されることでキャラクターの存在感が増すことにそれは見て取れます。
こうした意識から出発し、wimpが一貫して掲げるテーマが「亡霊」や「迷宮」。着目してきたのが作者不明のまま民間に伝承される寓話です。口頭で伝承される過程において物語の真意は守られるものの、登場人物などは土地や風土によって変化していく。そのズレが亡霊のようであるとし、物語とそれを伝え聞く人間の彷徨に迷宮のキーワードが現れます。
亡霊のように日常に潜む違和感
日常生活においても、意識が揺らぎ迷宮に迷い込んだような感覚に囚われることがあります。wimpは京都を訪れた際、出会い頭にぶつかるようにして辿り着いた平安神宮の鳥居で体験しました。そこから発想したのが本展「めまい」。身体が誤作動を起こした時に感じるズレと日常に潜む奇妙さや違和感を表現します。
「昔から知っていて、生活に馴染んでいたはずなのに想像を遥かに越える大きさで、ゲームのマップぐらいに思える違和感のある風景だった。しかし、確かに“ここにある”ことに興奮した。(地図アプリが示す)最適解への道を歩いて目的地も見えているなか、目の前に突如現れた巨大な鳥居に意識、感覚が揺さぶられた」
このような道に迷った時間、立っている空間に感じる言い知れぬものとの交感は現在、制作活動の拠点を置く出身地の滋賀県の強い西日によっても照らされていました。
「東京で生活していた時には、目を細めるほどの日差しを久しく浴びていなかった。子供の頃、外は眩しいという記憶が強くあって写真でもしかめっ面で写っている。まだ幼い子供の目には明るすぎるんだろうとしか思っていませんでしたが、東京のように高い建物があまりなく日差しが直接自分を照らしていることに気づいた」
蘇りの感覚としてのめまい
過去に経験していたものの忘れていた感覚。時間と場所によって風景や日光の感じ方が一転するのは、wimpが関心を寄せる寓話に通じるもの。歴史として土地に残されたものとの交わりは蘇りの感覚ともいえ、めまいに似たものとします。
「めまいが起きるとき、ふわふわするというか奇妙な感覚に陥る」ことから出発し、wimpは意志を持って物事を片っ端から意味づけする態度ではなく、焚き火をただ眺めているうちに心が開いていくような状態にいることでこそ物事の本質を捉えられるのでないかと考え至ります。
「音楽ひとつとっても、宝のようなトラック(曲)を偶然探し当てる楽しさが減った。現在、サービスは徹底的に個人を分析しニーズに合うものを提供してくれます。この便利さは受け入れつつも、それは果たして幸せなのだろうか」
本展で公開される約30点の作品ではトリップ体験かのように現れた鳥居や名前も定かでなかったり、世間から忘れ去られたキャラクターたちは画面の中で見切れ、入れ子状態にして描かれます。一見成立しているように見せかけて実は破綻した画面構成で平衡感覚に揺さぶりをかけ、観る者を日常の計り知れなさ、意識の外へ放とうとします。
迷い、待つことで見つける真理
アナログペインティングとデジタルの手法では同じ題材を扱うにしても違う表現が出てくると話し、3DCGで描いたモチーフをジークレープリントで出力しペインティング作品と並列。その間でめまいのような鑑賞体験を生み出そうとします。
アーティスト名wimpとは「弱虫」の意味。弱い自分を変えながら、しかし無理をせず限界も見極め手探りして生きていくという自らの宣言であり、社会への呼びかけでもあります。
「最短距離を出されることの生きづらさ。多角的にものを見ることは時間がかかるかもしれないけど、それでも自分の歩き方を見つけることが大事だと思っている。正しいことに導かれるには迷うことが必要なのではないか」
道は歩んでみて初めて、その道がどのようなものであるかを知ることができる。哲学者のマルティン・ハイデッガーは過程を体験し、ゆっくり時間をかけることでのみ真理に到達できるといった考えを展開し、待つことが事象の本質へ開かれた状態にあるとします。
「回答があるにせよ、そこに到る道はさまざまにある。誰もがこの社会で生きやすくするため」にwimpは迷路という過程を設定し、単純化される世界でこぼれ落ちていくものを取り戻そうと待つのです。